2010/02/22

チベット概史その二

本当は昨日アップするつもりだったけど、ちょっと時間がなくて今日になりました。
前回の引用で、チベットが決して中国の一部ではない歴史的に独立した国であることがザックリでも解ると思う。今回は、そんな独立国チベットが現在の監獄のような現状に陥るに至った経緯です。

「囚われのチベットの少女」解説 今枝由郎 より抜粋

その後、今度は満州族が明を打倒し、清朝(1616−1912)を打ち立てた。今までみてきたことからも分るように、中国の歴史は決して一貫した漢民族の歴史ではなく、異民族による支配と、漢民族による支配とが交互に繰り返された複雑な歴史である。
そのころチベットでは、15、16世紀と政治的に不安定な2世紀の後、5世ダライラマのガワン・ロサン・ギャムツォ(1617−1682)が登場し、1642年にはモンゴル族の軍事勢力を背景に全チベットに覇権を樹立し、国情が安定した。現在にまで続くダライラマ政権の始まりである。5世ダライラマは清の康煕帝(在位1661−1722)と、パクパとクビライの関係に似た友好的な関係を打ち立てた。彼の治世は、古代の吐蕃王国以来の黄金時代といえる。5世ダライラマが「偉大な5世」と称されるゆえんである。
この当時チベット文化圏は、チベット本土を中心に、西はラダックから東は青海省、四川省まで、北はモンゴルから南はヒマラヤ山脈を越えてネパールの北部、インドのヒマチャル・プラデーシュ、シッキム、アナルチャル・プラデーシュ州の北部、ブータンにいたる広大な地域に広がった。チベット仏教(※)を中心にしたチベット文化は、中国、インドとならぶアジアの偉大な文化の一つである。※原文では「いわゆるラマ教とよばれる大乗仏教」とあるが、現在ラマ教という呼称はあまり使われなくなり、より使われるようになったチベット仏教の方が妥当でもあるので変えました。
清朝は、歴代中国王朝のなかでもっとも侵略的、植民地的な国家で、北方および西北方に貪欲な版図拡大を開始した。その結果、中国の領土は明の時代と比較すると倍増した。そしてその触手がチベットにも向けられた。
チベットでは6世ダライラマ(1683−1706)の正当性の問題がもつれ、政情不安定な時期を迎えた。7世ダライラマ(1708−1757)は中国とチベットの辺境地域に生まれたが、彼をチベットの首都ラサに護送すると云う名目で、中国軍はチベットに侵攻した。1720年のことである。このとき清朝はラサに「西蔵平定碑」を立て、チベットを征服したと主張した。以後20世紀初頭まで、アンバンとよばれる軍事司令官を長とする小規模な中国軍がラサに駐屯した。しかし、中国がチベットの内政に干渉することはなかった。この時期、清朝はチベットに対してゆるい宗主権のようなものを行使していたといえる。それはインドを植民地支配していたイギリスも、チベットに関して中国と交渉していることからもうかがえる。
1912年に中国最後の王朝清が滅び、中華民国が成立した。このときチベットは中国のあらゆる軛(くびき)から解き放たれ、13世ダライラマ(1876−1933)は独立を宣言し、国内の整備と近代化に努めた。しかし中国は東チベットのカム地方から侵略を始め、チベットを脅かした。
日本がチベットと始めて直接的に接触するのはこの時期である。接触といっても、国と国との大がかりなものではなく、ほんの一握りの「探検家」たちによるものであった。もっとも知られた人々としては、河口慧海、多田等観、青木文教などがあげられる。
1949年に、中国共産党がほぼ中国全土を支配し、中華人民共和国が成立した。チベットは中国の一部であると宣言し、「平和解放」の名の下に、チベットの東部カムと北部アムドを、おのおの四川省、青海省に編入し、中央チベットは西蔵自治区として中国に併合・占拠された。
1959年3月、14世ダライラマ(1935年生まれ)は、中国軍による拉致を恐れてインドに亡命し、現在に至っている。彼の後を追って、十万人近いチベット人がインドに亡命した。
その後、チベットにおける中国の残忍さは、文化大革命(1966−1977)中にその極に達し、宗教は禁じられ、国内に数千あった寺院は、いくつかを除いてすべて破壊された。こうした弾圧はその後いくぶん緩和されたとはいうものの、中国による弾圧、抑圧は現在も変わることはない。チベットに残ったチベット人も、亡命チベット人も、世界各地で中国の不当な占拠を告発し、独立運動を継続している。この連綿と続く非暴力的独立運動の指導者として、ダライラマがノーベル平和賞を授与されたことは、よく知られている。
今まで見てきた中国・チベット関係という歴史的観点からして、また第二次世界大戦後、多くの民族国家が独立したことに鑑みても、中国によるチベットの占拠は不当以外のなにものでもない。(略)チベットがチベット人のものであるというこの正当な主張が、独立運動として厳しく弾圧されているところに、チベットの悲劇がある。政治的、軍事的、経済的な面からして、格段に優位に立つ中国は、その力を盾にチベット人の人権を無視してこの占拠政策を継続している。チベット人は自らの国で囚人となっている。この絶望的な状況のなかで、チベット人は勇敢にも孤独で悲壮な闘争を続けている。
(以下略)

以上で引用は終わり。
先日のオバマ大統領との面会で中国政府が猛抗議したことからも、中国政府にとってチベットが大きな軛であり、触れられたくないアキレス腱であることは明らかだ(ま、今さら言うまでもないことだけど)。アメリカとは本気で喧嘩したくない中国が斯くも「怒った」態度を示す理由については、経済や政治の専門家からいろいろ分析されているのでそちらに任せするとして、日本政府ももう少し、最低でも人権問題として毅然とした対応をとるべきだ。

ところで、ツイッターでフォローしている某氏がトンデモ左翼から自分のブログに極端なコメントされたと怒っていたが、当ブログでも「バカ右翼」と「バカ左翼」とはお付き合いしたくない。
て、その前に、コメント来ませんねえ^^;
誰も来ない所で一人黙々…。いいもん。自己満足でいいもん。

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2010/02/20

チベット概史その一

ちょうど頃合いと云うのもあって、「囚われのチベットの少女」の解説(by今枝由郎)をチベットの略史として抜粋します。特に中国との関係を中心に記述されているので、フリチベさんにはチベットの歴史をザックリ振り返るにはもってこいの文章です。


「囚われのチベットの少女」解説 今枝由郎 より抜粋

チベットがアジアの歴史の舞台に登場したのは7世紀前半のことである。それから9世紀中頃までの2世紀余が、チベットの一つの黄金時代といっていいであろう。
「世界の屋根」チベットに発祥した騎馬農耕民族チベット民族は、中国の西北辺境に突如として姿を現した。開国の英主ソンツェン・ガンポ(649年没)の治世下に中国辺境の民俗を侵攻しはじめ、唐朝(618−907)にも、その初期から使節を遣わすようになった。この新興勢力を懐柔するため、唐は文成公主(公主は狭義には天子の娘を指す。しかし広義にはその血縁の子女にも応用される)をソンツェン・ガンポに嫁がせた。
(略)中国人はよくこの婚姻関係をもって、チベットがあたかも中国に統合され、同一民族になったかのように主張する。しかし実際にはこの婚姻は、当時唐朝が周辺異民族にたいしてとっていた外交政策の一環に過ぎず、これによってチベットが中国に隷属したわけでも、両民族が合体したわけでもない。(略)(8世紀にはもう一人、金城公主がチベットの王に嫁いでいる。)
その証拠に、その後ますます勢力をつけたチベットは、中国の西に一大軍事国家を形成した。この当時のチベットは中国史料では吐蕃(とばん)と呼ばれ、中国にとってもっとも強敵で、もっとも恐れられた辺境民族であった。奇しくもこの当時日本は、唐の朝廷で吐蕃と邂逅している。記録によれば、日本の遣唐使と吐蕃の使節が唐の朝廷で同席すると、日本は吐蕃の下座に坐らされたという。これは少なくとも唐の目には吐蕃の方が、日本よりも重要な、強力な国家と解されていたことを物語っている。(略)
8世紀になるとチベットはますます勢力をつけ、版図を拡大した。763年には唐の都長安を軍事占拠し、一時的ながら唐の皇帝を廃位し、新帝を擁立した。理論上はこの時点で中国の唐朝は終わり、他のいくつかの民族が打ち立てたような征服王朝__例えば元__が成立したことになる。このチベットの中国支配は数週間の短命に終わったが、もしもう少し続いていたら、その後の中国やアジアの歴史は大きく変わっていたであろう。
いずれにせよ、この当時のチベットは強力であった。西はアラブ勢力と鎬を削り、北は敦煌をはじめとする中央アジアのオアシス都市を支配し、南はヒマラヤ山脈を越えてベンガル湾まで勢力を伸ばし、東は中国の内地まで侵攻した。中国の史料は、かつて辺境の民族がこれほど栄えたことはなかった、と畏怖の念を込めて記録している。
こうして版図を広げたチベットは、各地で仏教と出遇った。これはチベットのその後の歴史を決定する宿命的な出会いであった。8世紀後半には護国寺としてのサムエ寺が建立され、国家勢力の庇護の下に仏教が栄えた。大規模な仏典翻訳事業が開始され、後のチベット仏教発展の礎が築かれた。(略)
9世紀の前半に中国とチベットの間に平和条約が結ばれた。そのときの条文は唐蕃会盟碑としてラサに現存する石碑に刻まれてるが、そこには「大チベット、大中国」とあり、両国はまったく対等に扱われている。
2世紀余にわたって繁栄した吐蕃王国は9世紀の中頃に崩壊した。この時代をチベット史の第一幕とすれば、それは軍事国家の時代であった。
続く1世紀余は、信頼できる史料がなく、チベット史の暗黒時代である。11世紀に入りチベット史の第二幕が開くと、それは仏教王国の時代であった。吐蕃王国の崩壊とともに国家の庇護を失った仏教は、一時衰えたが、その後氏族教団仏教として復興した。いくつもの宗派が現われ、その本山が各地で政治、経済、宗教の中心となった。こうして13世紀初頭のチベットは、群雄割拠ならぬ、群寺割拠の仏教の再興時代であった。
そのころモンゴル勢力が擡頭し、世界帝国を形成する勢いにあった。モンゴルの鉾先はチベットにも向けられ、軍事遠征が中央部にまで達し、チベットは未曾有の危機を迎えた。しかしサキャ派を代表するサキャ・パンディタ(1182−1251)がモンゴル朝廷に派遣され、その卓越した政治手腕のおかげでチベットはモンゴルとの戦禍を免れた。
その後モンゴルは中国を征服し、チンギス・ハンの孫クビライ(1215−1294)が世祖(在位1260−1294)として即位した。このクビライとサキャ・パンディタの甥パクパ(1235−1280)との間に、チェ・ヨン(帰依処・檀越)という特殊な関係が結ばれ、それが元時代(1271−1368)の中国・チベット関係を規定した。この関係は、パクパは皇帝の師すなわち帝師であり、皇帝クビライはパクパに帰依し、その教えを受け、その代償に皇帝は檀越(=施主)として、帝師に捧げるものを寄進するというものであった。二人の人間の個人的な関係が、パクパをチベットの代表とし、クビライを元の代表として、チベット、元の二国間関係に適応されると非常な曖昧さが生じてくる。
中国側はこの関係をもって、チベットは元の保護国となったとみなし、チベットはこの時代から中国に隷属したと主張する。しかしこの主張には無理がある。チベットと元との間には、政治的・宗教的にゆるやかな相互依存関係があったと見るのが妥当であろう。
モンゴル人による元の後を継いだ明(1368−1644)は、漢民族の王朝である。この時代はチベットはまったく中国から独立しており、明による軍事侵略といったこともなく、チベット・中国関係史の中でもっとも平穏な時代であった。



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2010/02/19

「囚われのチベットの少女」(HABU'sBLoGより再掲)

タイトルにあるように、HABU's BLoGからの転載です。
しょうじき感情が抑えきれず、読み返してみるとまとまりきってないので、本当は書き直すつもりだったけど、どうもうまく書けないのでそのまま流用することにしました。

Amazon.co.jp: 囚われのチベットの少女: フィリップ ブルサール, ダニエル ラン, 今枝 由郎


返却期限過ぎていたのをすっかり忘れていた「囚われのチベットの少女」の読み残しを一気に読んだ。
本の感想はここではさらっと流しますが、「雪の下の炎」よりも怒りの成分が多かったです。もし二年前に読んでいたら本当に冷静ではいられなかったでしょう。
チベットに関心のない人は「ああチベットものね」でスルーするかもしれませんが、この本はチベットに関心のない人にもぜひ読んでみて欲しい一冊です。
表現は大人しいです。人によっては物足りなく感じるかもしれません。でも、描かれている現実は凄惨そのものです。

いま世界の趨勢は暴力の応酬に暴走し、力に対応するには力しかない、あるいは平和になったから力は正義だ、平和主義者の話を聞いていたらテロリストにやられるだけだ、と。まるでテロリストは生まれながらテロリストであるかのように。勝てば官軍などと平気で言ってのける者もいる。
けれど、本当にそうか?
それで問題が解決したと言えるのか?
それが本当なら何故この世から戦争が無くならない。
人は不満を抱く。
だから紛争や争いごとが起る。それを拡大すれば戦争といってもいい。
では、なぜ人は不満を抱いた。
なぜ権力に反抗する?
時に命を賭してまで。

なぜ?

暴力によって齎された平和は人を幸せになどできない。
1993年から95年にかけて私が旅したチベットは、平和そのものだった。確かに不穏な噂や話が耳に届き、社会的な歪みや理不尽さも感じたけれど、政治的な不安定を直接垣間みることはなかった。
でも、現実は、そんな暢気な日本人のすぐ近くで鳥葬よりも衝撃的な出来事が日常的に行われていたのである。
見せかけの平和は中国当局の自信を増長させただけで、一昨年の3月に破綻した。
チベットだけではない。ビルマでも僧侶が先頭に立って大規模なデモが発生した。中国内でも昨夏のウルムチは記憶に古くはないはず。パレスチナもしかり。どれもこれも圧倒的な強者が力でねじ伏せてきた結果である。そして抵抗の動きに対してもまた同じ力ずくの屈服。その結果残るのは緊張と憎悪である。
押さえつけられた者たちも、力で対抗したところでジリ貧になるだけ。
けっきょく力の応酬は後戻りがどんどん難しくなる袋小路に突っ込むようなものだ。
米国はベトナムで自ら仕掛けた地雷を踏んでしまい、旧ソ連もアフガニスタンで同じく手痛い教訓を得た___筈なのに、ほぼ旧ソのロシアはコーカサスで、米国は湾岸で、再び同じ轍を踏み、さらに米国はアフガニスタンで自分だけでなく旧ソの撒いた種の後始末までしなければならなくなっている。ちなみに反米勢力の結束力を強めたのは、皮肉にも米国が大々的にPRした一つのキャッチフレーズと一人のシンボルである。更に一つだけ付け加えておくなら、テロはイスラム過激派の専売特許ではないし、イスラム教徒というだけで危険視するのは無知にもほどがある。

さて、眼をもう一度チベットに向けると、中国政府も米国や旧ソ、ロシアと同じ轍を思いっきり踏んでいる。
ただ違うのは、現場が実効支配の域内であることと、チベット人の抗議運動が非暴力に根ざしていることである。

非暴力___言うは易しである。ダライラマ法王が弟子だと公言するガンディーですら非暴力の運動に辿り着くまでにそれなりの年月を要した。
それを10代の少女が、それも監獄の中で、命がけで貫き通したのである。

私はチベット問題を押し付けるつもりはない。
ただ、知って欲しい。

ちょっと時間が遅くなったのと、言葉が続かなくなってしまったので、この辺にしておきますが、最後に、彼女はいま米国で暮らしています。
2002年に釈放されたものの今なお収監中の後遺症に苦しみ、それでも「International Canpaing for Tibet」で人権アナリストとして活動しているそうです。(参考→http://d.hatena.ne.jp/tibetnews/


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2010/02/16

緊急アクション:オバマ大統領へファックスを

先ずはお知らせ。
mixiトピなんだけど、知ったのはツイッターから。でも、その元になったサイト(英語)が既に公開されているのと、ことがことなので、このブログでも微力ながら協力したいので、一部かいつまんで転載します。
緊急要請:残り3日間,ダライラマとオバマ会談へ
日本からもホワイトハウスへファックスにご協力下さい。
http://ihearttibet.org/?page_id=78

ダライラマ法王とオバマ大統領の会談が行われる日、18日まで残す所3日間となりました。
ここで、米国大統領に向けて明確な要請を行うため強化プッシュを行う3日間集中ファイナル アクションにご協力ください。
(中略)
なにとぞ、本日から木曜日にかけて、オバマ大統領への一斉集中ファックスアクションにご参加ください。ホワイトハウスの広報によりますとオバマ大統領は毎日、一般市民からの10通の手紙、メッセージに必ず目を通すそうです。

オバマ大統領へのサンプル レター(ひな形)と、メッセージの送り方を続きに載せておきますが、mixiを利用している方は→コチラ

関係link

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