2010/02/20

チベット概史その一

ちょうど頃合いと云うのもあって、「囚われのチベットの少女」の解説(by今枝由郎)をチベットの略史として抜粋します。特に中国との関係を中心に記述されているので、フリチベさんにはチベットの歴史をザックリ振り返るにはもってこいの文章です。


「囚われのチベットの少女」解説 今枝由郎 より抜粋

チベットがアジアの歴史の舞台に登場したのは7世紀前半のことである。それから9世紀中頃までの2世紀余が、チベットの一つの黄金時代といっていいであろう。
「世界の屋根」チベットに発祥した騎馬農耕民族チベット民族は、中国の西北辺境に突如として姿を現した。開国の英主ソンツェン・ガンポ(649年没)の治世下に中国辺境の民俗を侵攻しはじめ、唐朝(618−907)にも、その初期から使節を遣わすようになった。この新興勢力を懐柔するため、唐は文成公主(公主は狭義には天子の娘を指す。しかし広義にはその血縁の子女にも応用される)をソンツェン・ガンポに嫁がせた。
(略)中国人はよくこの婚姻関係をもって、チベットがあたかも中国に統合され、同一民族になったかのように主張する。しかし実際にはこの婚姻は、当時唐朝が周辺異民族にたいしてとっていた外交政策の一環に過ぎず、これによってチベットが中国に隷属したわけでも、両民族が合体したわけでもない。(略)(8世紀にはもう一人、金城公主がチベットの王に嫁いでいる。)
その証拠に、その後ますます勢力をつけたチベットは、中国の西に一大軍事国家を形成した。この当時のチベットは中国史料では吐蕃(とばん)と呼ばれ、中国にとってもっとも強敵で、もっとも恐れられた辺境民族であった。奇しくもこの当時日本は、唐の朝廷で吐蕃と邂逅している。記録によれば、日本の遣唐使と吐蕃の使節が唐の朝廷で同席すると、日本は吐蕃の下座に坐らされたという。これは少なくとも唐の目には吐蕃の方が、日本よりも重要な、強力な国家と解されていたことを物語っている。(略)
8世紀になるとチベットはますます勢力をつけ、版図を拡大した。763年には唐の都長安を軍事占拠し、一時的ながら唐の皇帝を廃位し、新帝を擁立した。理論上はこの時点で中国の唐朝は終わり、他のいくつかの民族が打ち立てたような征服王朝__例えば元__が成立したことになる。このチベットの中国支配は数週間の短命に終わったが、もしもう少し続いていたら、その後の中国やアジアの歴史は大きく変わっていたであろう。
いずれにせよ、この当時のチベットは強力であった。西はアラブ勢力と鎬を削り、北は敦煌をはじめとする中央アジアのオアシス都市を支配し、南はヒマラヤ山脈を越えてベンガル湾まで勢力を伸ばし、東は中国の内地まで侵攻した。中国の史料は、かつて辺境の民族がこれほど栄えたことはなかった、と畏怖の念を込めて記録している。
こうして版図を広げたチベットは、各地で仏教と出遇った。これはチベットのその後の歴史を決定する宿命的な出会いであった。8世紀後半には護国寺としてのサムエ寺が建立され、国家勢力の庇護の下に仏教が栄えた。大規模な仏典翻訳事業が開始され、後のチベット仏教発展の礎が築かれた。(略)
9世紀の前半に中国とチベットの間に平和条約が結ばれた。そのときの条文は唐蕃会盟碑としてラサに現存する石碑に刻まれてるが、そこには「大チベット、大中国」とあり、両国はまったく対等に扱われている。
2世紀余にわたって繁栄した吐蕃王国は9世紀の中頃に崩壊した。この時代をチベット史の第一幕とすれば、それは軍事国家の時代であった。
続く1世紀余は、信頼できる史料がなく、チベット史の暗黒時代である。11世紀に入りチベット史の第二幕が開くと、それは仏教王国の時代であった。吐蕃王国の崩壊とともに国家の庇護を失った仏教は、一時衰えたが、その後氏族教団仏教として復興した。いくつもの宗派が現われ、その本山が各地で政治、経済、宗教の中心となった。こうして13世紀初頭のチベットは、群雄割拠ならぬ、群寺割拠の仏教の再興時代であった。
そのころモンゴル勢力が擡頭し、世界帝国を形成する勢いにあった。モンゴルの鉾先はチベットにも向けられ、軍事遠征が中央部にまで達し、チベットは未曾有の危機を迎えた。しかしサキャ派を代表するサキャ・パンディタ(1182−1251)がモンゴル朝廷に派遣され、その卓越した政治手腕のおかげでチベットはモンゴルとの戦禍を免れた。
その後モンゴルは中国を征服し、チンギス・ハンの孫クビライ(1215−1294)が世祖(在位1260−1294)として即位した。このクビライとサキャ・パンディタの甥パクパ(1235−1280)との間に、チェ・ヨン(帰依処・檀越)という特殊な関係が結ばれ、それが元時代(1271−1368)の中国・チベット関係を規定した。この関係は、パクパは皇帝の師すなわち帝師であり、皇帝クビライはパクパに帰依し、その教えを受け、その代償に皇帝は檀越(=施主)として、帝師に捧げるものを寄進するというものであった。二人の人間の個人的な関係が、パクパをチベットの代表とし、クビライを元の代表として、チベット、元の二国間関係に適応されると非常な曖昧さが生じてくる。
中国側はこの関係をもって、チベットは元の保護国となったとみなし、チベットはこの時代から中国に隷属したと主張する。しかしこの主張には無理がある。チベットと元との間には、政治的・宗教的にゆるやかな相互依存関係があったと見るのが妥当であろう。
モンゴル人による元の後を継いだ明(1368−1644)は、漢民族の王朝である。この時代はチベットはまったく中国から独立しており、明による軍事侵略といったこともなく、チベット・中国関係史の中でもっとも平穏な時代であった。



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