2010/02/10

私がチベット旅行に行くとしたら_プロローグ

ここんとこツイッターのせいで毒抜きし易くなり、何となくブログを書くエネルギーが微妙に枯渇状態になる。それでもHABU's BLoGは親バカ写真等で繋げるが、こちらはそうはいかない。最近のチベット関連のニュースでも取り上げればいいのだが、それもツイッターに手軽に速報コメントできるからブログを書くのはまとめとしてと思いつつ流れてゆくのが現状である。正直これはマズイ。

というわけで、この前mixiのトピで気になるコメントがあり、こんな特集的なものを企画してみたのだが、はてさて、どうなることか。ちゃんとシリーズになるか、どうか、ま、とりあえずやってみましょ。

えーっと、私自身は本館(TIBET ROOM)の旅行記をご覧になった方ならご存知の通り、チベットには既に3回行ってまして、その間にカイラスへも行きましたし、鳥葬も最初から最後まで目の当たりにしました。サキャダワもみました。ダラムサラにも一ヶ月、デリーではマジュヌカティラ(チベタン・キャンプ)に二回(4ヶ月、1ヶ月弱)滞在しました。ただし15年も前の話ですがね。
そうだ、このシリーズ(予定)は「それでもチベットに行きたい私がどうすればいいのか」というテーマで記事を書いてゆきましょう。うん、そうしよう。そして、今回は、そのプロローグとして、私のチベット体験を旅行記とは違う切り口で書いてゆくってので、どうよ。

とまあ、そんな何でも行き当たりばったりの私が日本を脱出したのは、忘れもしない筈がうろ覚えの1993年2月。世界一周になる2年間になる筈が、なぜアジア放浪というかヒマラヤ周辺をふらふらしてしまったのか、それは旅行記を読んでください。
そんな放浪の旅の間のチベット体験を超大雑把に箇条書きすると、…あ、その前に話は更にさかのぼるんだった。まあいいや。それも含めて私のチベット体験、いってみよ!

1989年9〜10月@ウルムチ、成都、大里_始めてチベット旅行の話を聞く。具体的には旅行記で簡単に触れてますが、この時は前年と同年にラサで起ったこととか知らなかったから、とにかくチベットにはおいそれとは入れないと云う強烈な印象を刻み込まれた。これがMyチベットの始まりである。

1993年6月_始めてのチベット。
ネパールin、ラサまでランクル。そしてカイラス by バス!〜カシュガルへ。
ちなみに、タイで行けると知って急遽計画を変更し、カトマンズから中国ビザを取りにデリー往復、戻ったポカラで高度慣れを兼ねてトレッキング(アンナプルナ内院)。
だけどカトマンドゥではボーダが閉まったという噂が待ち構えていた。スペイン人のトラベルライターに行っても無駄だと言われた。そのせいかコダリ(国境)行きの同じバスにいたヨーロピアンたちは手前の村で全員降りてしまった。
結局、結果は旅行記の通りで、旅の情報なんてこんなもんだ。特にチベットに関しては実際に自分で実行しないと判らないというのが、その後の経験則である。だけど、国境の橋を渡ってからダム(チベット側の村)まで小雨の中のプチ・トレッキングは情報通りだった。この辺のことは、「おまけ」として旅行記に書くつもりだけど、まだ書いてないや。そのうち書くからね。気長に待ってて下さいな。

1993年9月_ダラムサラ。
行動を共にしていた人が法王取材のカメラマンとして急遽採用され、取材を終えたライター他、集団謁見を終えた者たちが異常に盛り上がったけれど、そんな中、予定時間の繰り上げで集団謁見に結果的に「遅刻」して逢えなかった私ともう一人は暗く落ち込む。おまけに、その時は正体を知らなかった座骨神経痛と風邪が追い討ちをかけた。何とも暗い想い出である。どちらかと云うとインド旅行者的な楽しみ方をしていたな。

1993年11月〜1994年3月_マジュヌカティラ。
詳しくは旅行記に譲るけど、ここでの四ヶ月は、私にとって非常に重要な、そして大切な宝物である。特に何もしていない。ただTee Dee Resturantと宿とを往復しているだけ。チベット人だからと特に意識することもなく、しまいには互いに母国語で話しかけてしまうほど、横丁の日常に馴染んでいた。子どもたちからは「メクシーメクシー」とからかわれ、実に淡々とした時の流れに身を任せて、いま考えると、異文化のストレスを癒していたのかも知れない。

うーん、ちょっと話が長くなりそうなんで今日はここまでにしておきます。

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