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2010/02/13

私がチベットへ行くとしたら_プロローグ(続き)

ホンマにシリーズ物にできるんかな?
のっけから己の飽きっぽさを不安がってるけど、たまには頑張ることをしないと精神がメタボになる。頑張ろ。

前回のおさらいから___
個人では自由旅行は不可能と思い込んでいた憧れのチベットに行けると知り、急遽チベットへ。カイラスにも行き、そしてダラムサラを経てマジュヌカティラまで来た。

そして中国ビザをとって再びネパールへ。しかし、ポカラで虹色の夢を満喫し、カトマンで何故か筒井康隆にはまり、皆が頭を悩ます中国ビザをみすみす期限切れさせるという実に優雅な時を過ごす。しょうがないのでバンコクついでのコ・パンガン、香港、大理、麗江、成都と大回り。自分でもなにやってんだろうと思いながら、カトマンのイミグレとバンコク空港で当たり前のようにオーバーステイの罰金を払ったのは、まあご愛嬌。
で___

1994年9月_二度目のチベット。
今度は飛行機。鳥葬、露天風呂、ガンデン、サキャ、ギャンツェなど充実した観光ができた。既にインド時間の染み付いた怠け者が行動できたのは、全て一緒にいた日本の若者たちの機動力のおかげです。有り難いこってす。詳しくは旅行記に。

さて、元々の怠け癖が開花してしまったのか、だらだらと楽しい時間がながれて年末に一度帰国。相変わらずだらだら過ごし、金銭感覚というか常識まで失ったニート時代へ行く前に、

1995年6月_三度目のチベット。
今度は再びネパールから陸路でラサ往復。予算不足のうえ、「西蔵自治区30周年」ということで何かと窮屈な情報ばかりで苛々の募る旅行だった。それでも意図したわけでなく、シャカダワのラサを体験できた。これも詳しくは旅行記に。

以上、これが私のチベット体験だけど、この通り私のベースはバックパッカーです。ただ、いろいろと大人な事情もあって、おいそれと家を空けるわけにもいかなくなったまで。でなきゃネットでちまちまやってないで、とっとと日本を出ちゃってます。実際、去年の秋までは本気でカイラスへ行くつもりでいた。本当は一昨年の春のつもりで仕事も辞めたのに、北京オリンピックのせいでこんなことに。勿論オヤジの手術とか色々あったけど、それにしてもねえ…溜息。。。

というわけで、そんなオッサンが実際に行くとなれば、せいぜい長くても一ヶ月が限度という状況(それすらも働きだせば難しくなる;;)のなかで、行くとなったら何をどうすればいいのかを考え、夢を膨らませていこうと思います。全くの始めてじゃないので、いつかチベットに行きたい(あるいは予定がある)方にも参考にはなると思います。


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2010/02/10

私がチベット旅行に行くとしたら_プロローグ

ここんとこツイッターのせいで毒抜きし易くなり、何となくブログを書くエネルギーが微妙に枯渇状態になる。それでもHABU's BLoGは親バカ写真等で繋げるが、こちらはそうはいかない。最近のチベット関連のニュースでも取り上げればいいのだが、それもツイッターに手軽に速報コメントできるからブログを書くのはまとめとしてと思いつつ流れてゆくのが現状である。正直これはマズイ。

というわけで、この前mixiのトピで気になるコメントがあり、こんな特集的なものを企画してみたのだが、はてさて、どうなることか。ちゃんとシリーズになるか、どうか、ま、とりあえずやってみましょ。

えーっと、私自身は本館(TIBET ROOM)の旅行記をご覧になった方ならご存知の通り、チベットには既に3回行ってまして、その間にカイラスへも行きましたし、鳥葬も最初から最後まで目の当たりにしました。サキャダワもみました。ダラムサラにも一ヶ月、デリーではマジュヌカティラ(チベタン・キャンプ)に二回(4ヶ月、1ヶ月弱)滞在しました。ただし15年も前の話ですがね。
そうだ、このシリーズ(予定)は「それでもチベットに行きたい私がどうすればいいのか」というテーマで記事を書いてゆきましょう。うん、そうしよう。そして、今回は、そのプロローグとして、私のチベット体験を旅行記とは違う切り口で書いてゆくってので、どうよ。

とまあ、そんな何でも行き当たりばったりの私が日本を脱出したのは、忘れもしない筈がうろ覚えの1993年2月。世界一周になる2年間になる筈が、なぜアジア放浪というかヒマラヤ周辺をふらふらしてしまったのか、それは旅行記を読んでください。
そんな放浪の旅の間のチベット体験を超大雑把に箇条書きすると、…あ、その前に話は更にさかのぼるんだった。まあいいや。それも含めて私のチベット体験、いってみよ!

1989年9〜10月@ウルムチ、成都、大里_始めてチベット旅行の話を聞く。具体的には旅行記で簡単に触れてますが、この時は前年と同年にラサで起ったこととか知らなかったから、とにかくチベットにはおいそれとは入れないと云う強烈な印象を刻み込まれた。これがMyチベットの始まりである。

1993年6月_始めてのチベット。
ネパールin、ラサまでランクル。そしてカイラス by バス!〜カシュガルへ。
ちなみに、タイで行けると知って急遽計画を変更し、カトマンズから中国ビザを取りにデリー往復、戻ったポカラで高度慣れを兼ねてトレッキング(アンナプルナ内院)。
だけどカトマンドゥではボーダが閉まったという噂が待ち構えていた。スペイン人のトラベルライターに行っても無駄だと言われた。そのせいかコダリ(国境)行きの同じバスにいたヨーロピアンたちは手前の村で全員降りてしまった。
結局、結果は旅行記の通りで、旅の情報なんてこんなもんだ。特にチベットに関しては実際に自分で実行しないと判らないというのが、その後の経験則である。だけど、国境の橋を渡ってからダム(チベット側の村)まで小雨の中のプチ・トレッキングは情報通りだった。この辺のことは、「おまけ」として旅行記に書くつもりだけど、まだ書いてないや。そのうち書くからね。気長に待ってて下さいな。

1993年9月_ダラムサラ。
行動を共にしていた人が法王取材のカメラマンとして急遽採用され、取材を終えたライター他、集団謁見を終えた者たちが異常に盛り上がったけれど、そんな中、予定時間の繰り上げで集団謁見に結果的に「遅刻」して逢えなかった私ともう一人は暗く落ち込む。おまけに、その時は正体を知らなかった座骨神経痛と風邪が追い討ちをかけた。何とも暗い想い出である。どちらかと云うとインド旅行者的な楽しみ方をしていたな。

1993年11月〜1994年3月_マジュヌカティラ。
詳しくは旅行記に譲るけど、ここでの四ヶ月は、私にとって非常に重要な、そして大切な宝物である。特に何もしていない。ただTee Dee Resturantと宿とを往復しているだけ。チベット人だからと特に意識することもなく、しまいには互いに母国語で話しかけてしまうほど、横丁の日常に馴染んでいた。子どもたちからは「メクシーメクシー」とからかわれ、実に淡々とした時の流れに身を任せて、いま考えると、異文化のストレスを癒していたのかも知れない。

うーん、ちょっと話が長くなりそうなんで今日はここまでにしておきます。

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2010/01/16

未知踏進

稲葉香 写真展
「未知踏進」西ネパール ムグ地方からシェー・ポグスムド湖への横断の山旅
大阪2/9(火)〜21(日)13:00~23:00 2/15定休日 @CHAKRA
東京3/19(金)〜22(月)11:00~20:00 最終日16:00まで @EARTH PLAZA
詳細はこちら


時おりチェックしているBlogから無断で転載。
今度こそマジで行こう。
前もこの方の写真展に行きます!とコメントを残しておきながら行かなかったし、ホンマに一度WEBじゃなく生で見たいんよね。
でも大阪って滋賀からだと近いようでいてちょっとした距離あるんだわ。ただでさえ腰が重い私には琵琶湖の西側はプチ異国といってもいいくらい面倒くさい。別に歩いてゆくわけじゃないんだから、要は駅へ行くのが面倒くさいのと往復の電車代をケチりたいしみったれた根性が足を引っ張っているのだ。でも、大阪のミナミの方ならまだしも北区だからね。頑張ろ。
しかし、デモがあると東京まで行くヤツが大阪行くの面倒だと言うのもどうかしているが、これでもチベットくんだりまで行っちゃった人間なんよね。信じられへん。さらにこの間まで本気でカイラス行く気でいたというのだから、わけわかりません。
あ、あかんあかん。あかんがな!シフトチェンジシフトチェンジ!またエンストしかけたわ。私も未知踏進するんや。

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2009/08/21

三ババ

きょう車を運転していたら、婆さん三人組の井戸端会議を目にした。
上手い具合に木陰になっているところに腰掛けるのに按排の良い段があり、そこへ一人が座り、後の二人は自分の手押し車に座って楽しそうに話をしていた。

写真に撮りたい!

そう思ってアクセルを緩めたものの、結局そのまま走り去ってしまった。
こういう時クルマはあかんなあ…と呟きかけて、どーせ歩いてたって「撮らせてください」なんて言えへんやろ!と自分でツッコミを速攻いれた。でもやっぱり口惜しいものが残る。
見ず知らずの人にレンズを向けるなんて、なかなか出来ない。それも日常生活の中ではカメラ片手に歩き回ること自体に既に照れがあるから尚さらである。
かといって断りも何もなくいきなり撮るってのも失礼なので、せめて写真を撮ることが怪しい行為ではない明確な状況があれば少しは助かる。例えば撮影会(参加したことないけど)とか、観光旅行とか。まあそれでもめっちゃ緊張するんだけどね。結局いっしょ。
だから結局「慣れ」という身も蓋もない結果に落ち着くのであった。チャンチャン♪
ところで、婆ちゃん三人組を見かけた時、上の写真を撮ったときの状況を思い出した。
95年6月のラサだけど、この時も少しは緊張したかな? 細かいことは忘れたけど、三人の前を通りかかった時「すてきやなあ」と思って気が付いたらカメラを構えてシャッターを切った、その一枚である。
それから一応ファインダーから目を離してカメラを指差し、「ピクチャーOK ? 」と断ったものの、果たして伝わったかどうか定かでない。
三人はその後もこちらを意識する様子をみせず、もちろんマニ車をまわす手も数珠繰りも休むことはなく、とにかく話を続けた。それだけに気が楽になったのは確かだけど、逆に集中が途切れてファインダーを覗きながら余計なことを考えてもいた。
一体何を話しているのだろうか。恐らくたわいのない話だろう。なんてことない光景なんだけど、彼女たちの生きてきた時代を考えたら、その何気なささえ愛おしような…。
そんなわけで、結局その後は一枚も撮らなかった。

それにしても、年老いたチベット人を見ていると、どうしても生きてきた時代の激しさを考えてしまう。そんな時代を生き抜いてきた強さは何処にあるのだろうか?なんてね。
けれど日焼けしたシワだらけの笑顔はチベットの大地のようにとりとめがなく、湿っぽい島国の感傷など瞬く間に乾いて無くなってしまうのがオチである。


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2009/06/06

チベット浪漫紀行

旅行にベクトルを移すとか言いながら、気が付けばTBET ROOMのデザインを手直し。で、それも終わり、公開したいんだけど結局旅行関係の原稿を書かなくちゃならない必要にフィードバック。なので、もう少し公開はお預けです。
で、何かキャッチフレーズになるような決めゼリフはないものかと、そのきっかけ求めて米米クラブのあの曲探そうと検索___そうそう「浪漫飛行」。で、Youtube



いや〜懐かしい。沖縄行きたいなあ…。

いや、そうじゃない!ヒント!ヒント!それにしても、案外甘ったるい歌詞だなあ…「諦めという名の傘じゃ雨はしのげない」うーん、駄目だなと思ってたら、その続きに

何もかもが知らないうちに形を変えてしまう前に

エ!

いつかその胸の中までも曇らぬようにRun away
追いかけるのさMy friend

ひえ〜そのものじゃんか!
最初に「チベットが」を付けるだけで、沖縄がチベットに早変わり。勿論なんだって応用が利く変換だけど、チベットの場合は現に中国政府が実態を隠しているからね、歌詞が凄く生々しくなる。あとの二行は、その直前まで書いていた文章の内容にあまりにドンピシャだったので反応してしまったけど、ヒントとしてはまんま過ぎた。
ところで、今度のTOPはこの曲をテーマソングにしても悪くはないかな?なデザインですが、今回はテーマを設定してみました。それは「風」です。ルンタと言っても良いんですが、やっぱ「風」です。チベットの気候を調べてゆくうち日本とチベットが密接につながりがあることを知りましたが、その立役者が偏西風やジェット気流という風なんです。他にも政治の嵐。そしてチベットでは季節の変わり目に大風が吹きます。たまたま旅行記のタイトルも「チベットの碧い風」だけど、TIBET ROOMの風が一人でもいいからチベットの風へ送り届けたなら、私のロマンティシズムは凄くご満悦である。

何もかもが知らないうちに形を変えてしまう前に
いつかその胸の中までも曇らぬように日本から逃げ出し
追いかけるのさMy TIBET

それにしても、チベットと海って通じるものがあるね。今回のデザインでは探していて気になった画像も海のイメージ画像が多かった。そういえばダライ・ラマのダライは「大いなる海」だったっけ。確かにチベットは海だ。高度4000メートル以上の大海だ。


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2009/05/31

my tibet

前回の投稿では失礼。嘘ついておりました。

>今後は旅行指向で行く

書いたつもりでいたのですが、どこにも書いてませんね。ハハハ、許せ!

というわけで、TIBET ROOM は旅行指向でまいります。本当です。実は既に準備を進めてまして、今回はその序文みたいなものを特別に一部公開したいと思います。本当は公開するまで伏せておきたいところですが、アクセス数の少ない寂れたサイトでもチェックして下さっている皆様への感謝の意を示したく、特典として一足早くお見せします。なんか舌を噛みそうというか指が絡まりそうな文章なので、兎も角まいりましょう。

端的に言うと、チベットだからといって特に日本で用意すべきモノなんて何もない。あるとすればパスポートや持病の薬、日本を出国する為の最低限のものだけだ。もしモデルのような格好でチベットを旅するつもりなら話は別だが、大抵のものはチベットへ至る途上、あるいはラサで手に入れることだって可能なのだ。
もう一度書く。チベットといえども通常の旅行なら特に用意すべきものは何もない。旅の準備も旅のうち。わざわざ物価の高い日本で買うくらいなら、少々ださくとも準備から旅の思い出にしたほうが楽しいではないかな? もし時間に少し余裕があるのなら先ず出発、それから準備する。現地に慣れるには買い物が一番である。
また初めての海外にチベットを選ぶような人は、チベットへ行く前に生活する生の中国人と接っしておいた方が良い。日本で凝り固まった感情的な正義感をほぐし、人民の雑踏の中に色眼鏡を投げ捨てることが、実は一番重要な準備なのかも知れない。

おやまあ14年間ラサを訪れていないのに言い切ってますよ、この人。はいはい、その通りです。でもね、海外旅行みたいに異文化体験をする上で大切なことは大きく外していないと思います。特にチベットへ行きたいと思う人は、去年からの一連の騒ぎの中で多かれ少なかれ「他人のチベット」をさんざん見せつけられてきたのではないでしょうか。
京都のイベントに参加した折にスタッフと話をしていたら、そのスタッフが「中国人は酷いですよね〜」と何気なく漏らした。私は「うん中国政府は酷いよね」と答えたけど、その若いスタッフはもちろん嫌中でも反中でもネウヨでもない。もしこの人が人権派でもなんでもない中国庶民の普段の姿に接したことがあれば、一人一人生活している具体的な中国人を体験していれば、あの時「中国」の後に「人(じん)」の文字が付いただろうか___今でもふと思うことがある、あの一文字をつけたのは何なのか、と。
日本のフリチベはなぜ中国人民に語りかけようとしないのだろうか。せっかく法王が進むべき方向を示唆して下さっているのに、何故いつまでも中国政府ばかり見ているのだろうか。なぜ手を伸ばすべき相手に石礫を投げつけるのだろうか。

これ以上は収拾がつかなくなりそうなので、この辺にしておきます。


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2009/05/26

バックパッカー

バックパッカーと云う言葉には今でも違和感がある。座り心地の悪い椅子と云うより、自分が場違いな気がして落ち着かない。
兎に角きれいな感じがする。新品の匂いがする。なのに貧乏旅行の今時版みたいに使われている。なんか奇妙だ。
そう思いません?

昔、ヒマラヤ周辺をうろうろしていた頃の私は、今ならバックパッカーと言われちゃうんだろうな。現にバンコクの空港で、ピッカピカのバックパック姿のカップルに市内までタクシー相乗りを持ちかけようと云う下心で声をかけたら、いきなり
「貧乏旅行の方ですか?」
「は…ぁ…そーですね、貧乏旅行の方です」
はっきり断られました。
あまり安い宿に泊まりたくない、あまり汚いところに泊まりたくない___オタクら私の何を知ってんのさ!何決めつけてんのさ!この腐れ万個賃子!話す時は人の目見て話さんかいコラ!この期に及んで地球の歩き方に穴空けたいんか!
「じゃあ気をつけて!」
ニコニコその場を離れましたけどね。もちろん安宿向かいましたよ。。。なにか?

貧乏旅行と云うことばも昔から嫌いであった。
現地の人たちからすれば私は金持ちである。そんな私が貧乏だなどと言えますかね?彼らに失礼だと云う気持ちがあったし、貧乏より貧乏とは、どう云うこっちゃねん。
もちろん貧乏を下げずむつもりは無かったけど、彼らを貧乏人とは絶対に言えない。だから平気で"I'm poor""I have no money"と言って乞食を去なす旅行者が不愉快だった。だったら働けよ!確かに日本に帰ったら貧乏かもしれんが、飛行機代くらいあるだろ!と、たまに怒ってました(頭の中で)。
そんな訳で、私自身は「節約旅行」といってましたが、どうも貧乏旅行の方がキャッチーなんですよね。定着するどころか広まる気配もなく、気が付けばバックパッカーなんて南蛮ことばに天下をとられてしまった。そしてバックパッカーと聞く度に蘇るバンコクの空港での会話___

「貧乏旅行の方ですか?」


でもさ、パキスタンのイスラマで安い夕飯くってたら、隣に居合わせたおっちゃんに服かってあげようと言われたんだよね。そんな服みっともないから捨てろとまで言われた。その時やっと自分が乞食みたいな格好だと自覚したんだけど、でも、本当は履いてたサンダルも足形に窪んで穴があいていたんだよね。もちろん黙ってたけど。買ってもらえば良かったかな?

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闇バスの相場と鉄道料金

U~mmmmm,,,,,,,...........〜〜;
ゴルムドからの闇バス1300元。850元。嘘でしょ。でもラサからの書き込み。

西寧〜ラサ
硬臥(下)523
軟臥(下)810
(2007年10月Sim's Cozy Guesthouseサイトより)
鉄道の方が安いじゃん!
闇バスの相場は有って無いようなもんだけど、リスクを考えると。
マジで昔の感覚すてないと…。
の前に、現実的に鉄道の捉え方を変える必要があるな。


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2009/05/24

お呼びでないのかバックパッカーか

ネット情報を紹介する情報ブログを暫くやったおかげというか、大抵のことは直ぐネットで調べてしまう癖がついた。
もちろん今度の旅行も例外ではない。まあ初めてではない土地なので、なめたところがないわけではないが、しかし14年のブランクである。体力もずいぶん違う。経験以外は全て劣ってしまっている。とはいえ、たかが2ヶ月。何とかなるわい。
で、そうそう、危うく話がズレルところだった。
mixiやら旅行人の掲示板とかでラサ入りの状況だけは一応チェックしているが、何時もなんとなく違和感を感じる。それも現地の状況変化よりも、むしろ旅する人たちの方にだ。

何ヶ月か前にタルチェンの飛行場を待ち望む書き込みを見た時、私は青天の霹靂を理解した。そして最近、ダルツェンドにできた空港を喜ぶ書き込みに再び目眩を催した。おそらく全員情報フェチなんだろうと自分に言い聞かせたが、それにしても…
損する楽しさに気がつかないなんて、
予測のつかない面白さに気がつかないなんて、
そんな余裕がないなんて、
いったい何を見ているのだろうか。
べつにWkipediaのバックパッカーのスタイルに従う必要はないけれど…。

旅行するにしても、人によって事情は千差万別だから一概に団体のパックツアーを否定するつもりはない。まとまった時間が取りにくい人もいれば、時間はある けど金がない人もいる。時間も金もある人もいる。皆が皆、沢木耕太郎のように深夜特急に乗れるわけではないし、乗る必要もない。人としての最低限のものを 持ってさえいれば、ひとは何をしようと自由だ。
それにしても、だ。

今時のバックパッカーは、少なくとも私の知っている頃とは違う匂いがする。もちろんネットを通してだから実際のところどうかは分らないが、でも、考え方と いうか、何かズレを感じる。ネットカフェに通うのが一部だというのなら気のせいで済まされるけど、今は当たり前の行為みたいだから、私のバックパッカーに 対する認識を改めるべきなのだろうか。
ま、旅人にとっては情報収集も旅のうちで、その為の便利な方法と云うことなのだろうが、でも情報に対する強 迫観念というか、依存というか、そんなものを凄く感じる。無闇矢鱈と詳細な情報を求めて、それが手に入らなかったら諦めるみたいな…。これも不確定要素の 多いチベット地区ならではの仕方ないことと解釈すべきなのだろうか。

あるいは逆に、もはやチベットや中国はバックパッカーがうろつける場所でなくなったのかな。

つまらん....。


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2009/05/19

とにかく意思表示、カイラスいくだ!

決めた!
今朝クソしたとき決めた。
2ヶ月!とにかく9月ラサ入り。後はとにかくカイラス目指す。帰国は10月末まで。
具体的にはパーミットとってでもラサに入り、そこでツアーを組むオーソドックスなもの。
それが駄目なら自転車買ってでも行く。
金は、何とかなるさ。
たぶん。。。
いつまでも迷っていては時間のムダ。
とにかく行って納得しちゃおう。
これが最後のチャンスとさらさら思っちゃいない自分がいる間は、とにかく前へ進む。

ところで、どーせ2ヶ月で帰る筈がないとか思ってるそこのアナタ、
私もそう願いたいけど、やっぱり要介護の親抱えていると、あまり月単位で留守にはできませんのよ。ま、これも一つの思い込みかもしれないけども。


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2009/05/10

Road to TBET その二

そして運命の89年を迎えたのであった。

というわけで、前回は勤め先をバックレ、そして旅の記に繋がるってところまでいった。


と書いて数日放っておいたら、なんか書く気力がかなり失せかけている。いかんいかん。始めたばっかりのブログでこれはいかん。何事も出だしが肝腎。

で、仕事辞めたといっても、会社からすれば無断欠勤を続ける無責任な若造に迷惑を被ったわけで当然クビ。会わす顔もないから暫く友達ん家に身を潜めていたんだけれど、確かその時だったと記憶しているが定かではない。友達の本棚に「中国の旅」というタイトルを見つけた。
お! 中国の旅行記がある。卒業旅行で中国に興味をもっていた私は、反射的に手に取って目次を開く。すると「上海」の二文字が目に飛び込み、さっそくページを繰った。そして上海のあたりで最初に開いたページを読んでみる___

皆殺しが終わると、兵隊たちは家に放火した。引き揚げる前に、一人の兵隊は死体を調べて、生存者がいないかと確かめた。生後四ヶ月の赤ん坊はオムツにくるまっていたが、蹴とばすと泣きだした。兵隊は片手でつかみあげた。ひも一本で結ばれている赤ん坊の着物は、ぱらりと落ちて裸になった。兵隊は泣きさけぶ子を地面にたたきつけると、銃剣で突き刺した。背中から腹に貫通した。そのまま、銃剣の先に赤ん坊を串刺しした形で、肩にかついだ。日本軍の一行は、号令とともに整列し、号令とともに出発した。赤ん坊をかついだ兵隊は、隊列の最後尾に加わった。赤ん坊はまだ生きていて、串刺しにされたまま動いている。軍歌をうたいながら、隊列は去った。(p.202 L.5-11)

何これ?___あまりの内容に吐き気を抑えながら改めて目次を見直して、ようやく察知した。
その本は本多勝一の「中国の旅」(朝日文庫)で、そのとき借りてから今も私のところにある。借りた当初は(今もどちらかと云えばそうだが)右も左も興味なかったから本多氏のことは何も知らなかった。「南京」すら知らなかった。だから先入観なしに一気に読んだ。
全く知らないどこかの国の遠い昔の出来事なんかじゃない。一年前に実際に旅した、あの中国である。そこで信じられない地獄絵を日本軍が描いていた。頭がクラクラする。その傍らでTVが天安門の様子を連日伝えていた。どのタイミングで読み終わったのか記憶に定かではない。少なくとも戦車がバリケードを乗り越え自由の女神像が倒れるまでには読み終わっていたと思うが、どうにもこうにも現実が理解できなかった。
あの戦争で人民解放軍は何を守ったのだろう。何のために戦ったのだろう。そして今、国の未来を担う若者たちに銃口を向けて実弾を発砲する。戦車で蹂躙する。何故?

花畑を見に北海道へ小旅行してリフレッシュするつもりでいたけれど、友人の「海外行けばいいじゃん海外」の言葉が最後まで残り、結局8月3日に成田から向かった先は北京だった。
天安門広場の中は立ち入り禁止で、大通りの四つ辻には必ず兵士がいた。しかしピリピリした雰囲気は微塵もなく、兵士の一人に銃を指差して「水平撃ち」の真似をしてみせたら、その若い兵士は笑って手を横に振った。好青年の笑顔だった。北京飯店の前の通りを横断する時、アスファルトの路面にキャタピラの跡が残っていた。

北京からは一気に西の酒泉まで行き、そこからシルクロードの有名なオアシス「都市」を辿りながらイーニンまで西進し、次いで天山山脈を越えて一気にカシュガルまで南下した。
カシュガルではパキスタンから国境を越えてやって来た日本人と知り合ったが、この出逢いが私のその後の生き方を大きく変えてしまうとは思いもよらなかった。そう、彼こそが風太さんである。

やれやれ、これでようやく旅の記に繋がった。この続きは旅の記に任せます。

2009/05/05

Road to TIBET その一

はて、

始まりましたがこのブログ、どうなるのでしょうかね。まあBlog"TIBET ROOM"と銘打ったからにはチベットに関することを書いてゆくのだけれど、さて___。

とりあえず、TIBET ROOMが全ページ改装いたしましたことをご報告いたす。
今回かなり中身の薄さを誤摩化せたと自負?しています。それから今回の目玉は、なんと言っても当ブログです。いやアッチの方が…という声は聞こえません。黙らっしゃい!

てことで、最初に繋がるのだけど、えーっと、んーっと、あ、通りすがりさんもいるだろうから、取り敢えず私のチベット履歴めいたものに触れてみますかね。

初めてチベットを意識したのはいつの頃だろうか? ハッキリしたことは覚えてない。地図上の「茶色い」存在は小学生の時には既に知っていたし、中学か高校の教科書で「吐藩」という国名を知っても、それがチベットに結びつくことはなく、国境は単なる線でしかなかった。大学の卒業旅行に中国へ行くと決めるまではアジアにすら興味もなく、行きたいNo.1はロンドンとケニアであった。

そもそも中国へ行くと決めたのも、たまたまである。忘れもしないあの部屋のあそこで
「どこ行くの?」
「中国」
「あ、オレも中国」
みたいな会話で友人Sと一緒に行くことにしたのだが、うーん、なるほど、あの時のいい加減な嘘が始まりだったわけか。なんて主体性のない無責任な…。
とはいえ初めての異文化はやはり衝撃的だった。でも、アジアへの興味は渋谷ののっぽビルのビル風に揺れるおんぼろビルで仕事に忙殺される毎日にたちまち呑み込まれるのであった。
その頃だと記憶している。でも、もしかすると大学在学中だったかも…、ちと定かでないが、ある日TVでユキヒョウの特別番組を見た。絶滅に瀕したユキヒョウが唯一ブータンでは個体数を増やしているというので、さぞかし凄い山奥の小国なんだろう。だって「ぶーたん」だぜ。怪獣じゃないんだから。でも、仏教の不殺生がユキヒョウ保護になっていると知り、ブータンが行きたい国No.1になった。そしてその時に流れた僧侶の映像がとても印象的で、それが最初のチベットとの接点であった。でも、興味の矛先はあくまでブータンとユキヒョウであり、チベットではなかった。
そして年が明けて運命の89年。チベットにとっても運命の年だが、日本も1月に天皇崩御で昭和が終わり、中国では6月に天安門事件が起こり、とにかく凄い年、私は仕事から発作的に逃げ出した。
そして旅行記の第一章に繋がるんだけど、この続きはまた今度。

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